昭和46年08月23日 月次祭
御神訓の「信心のある者とない者は、親のある子とない子ほど違う」、そこのところが、お道の信心では、いうところになるのです。そこが分からして頂くから信心がいよいよ有り難うなってくる。その信心のある者とない者は親のある子とない子ほどの違いを感じた時、どのような場合でも。
今朝から、朝の御祈念に、日田の綾部さんのお導きで、最近参って来ております、お父さんはかしわ屋さんをして、息子さんはラーメン屋か何かで。そして又娘、婿さんちゅうのが、今日は夫婦で一緒に参って来ておりました。それぞれにお願いをして、帰りよった。そのお願いがです、何とはなしに成就していく。例えばここにお参りをするようになったら、お土産がだんだん増えていきますとこう言う。
最近奥さんが中風の様で倒れられた。けどもやはり、医者がたまがるように、まあ快方にむかっておる。まあ信心をさして頂いてお願いをさしてもらう。まあ願いが成就するというか、思いが叶うた。だからその事だけが、親のある子とない子ほど違うという意味ではない。そりゃあもう、金光様の信心をすりゃ、お願いをすりゃ商売は繁盛する。お願いをすりゃ病気が治る。どうぞ今日も無事で、平穏にと願えば、今日は無事平穏におかげを頂けれるという。
まあそういう良かことばっかりが続くと言う事じゃない。親があるけんよかとかね。親があるからこそのまた信心もある。ですから、信心のある者とない者は親のある子とない子ほど違いがある。今朝の御理解の中にも、井戸は清水になるまで。井戸変えをするのに、7分目8分目で退屈してやめてしまうから、いつまでも水が濁っておるようなものじゃ。やはり水は濁っておるのである。
もう途中でやめればそれまでです。成程途中でやめればね、今まで井戸変えをしよったのが暫く放任しますから、澄んだようになって上澄みだけは、飲めれるようになる、場合もないではない。信心やめて却っておかげを頂くと言う様な人も確かにある。そういう意味では。けども決してそれは本当のおかげでもない。やはり信心をさして頂くというからには、やはり芯から根からの、いわばおかげを頂かしてもらう。
スッキリと、いわば井戸ざらいをした後のように、こんこんと清水のような水が湧いて出てくるというような、おかげを頂かせてもらわなければならん。しかしそういう、例えば結構なおかげを頂かせて頂くのであるから、本当にそこに親がおるのとないのとの違いほどのものをです、それは、良いこと悪いことにつけて、親があればこそ、親なればこそ、師匠なればこそと言う様にです、そ、親の心が分かり師匠の心が分かってくるとおかげを頂くのです。そこに完結したと。
今日もちょうど、いつ頃だったでしょうかね、ちょっと四時の御祈念の前だったでしょうか、鳥栖の上野さんが親子、5人で息子さん達が3人。それからご夫婦でお礼参拝。おかげで今日たいへんなおかげを頂いた。沢山の皆さんのお祈り添えを頂いておりましたが、もうそれこそ、医者がたまがるようにおかげを頂いた。そのおかげを受けておると言う事がです、今度ほど信心しておったおかげでというものを感じたと言う事はなかった。まあ30分ばかりのお話を聞かせて頂くなかに。
何遍鳴咽して声が出らんようになる、わっというその鳴咽しながらのお届けであった。もう本当に只々恐れ入ってしまうと。沢山の部屋がなかったから、いわば大部屋のような所だったんですね。沢山何人も患者さんが、隣のベット向こうのベットと、ちょっといろいろおられました。そのどの人と比べてもです、自分が特別なおかげを受けておるんだな、特別のご守護を受けておるんだなと言う事を、私のような無信心者でも感じんわけにはまいりませんでしたとこう言う。
今日は話を聞いて本当に有り難いなあと思うた。本当にあのすぐ隣のベットの方が同じ症状で入って、ところがあちらの方が、17日に退院され、あちらは23日に、今日退院する。そうして、自分達も遅れるだろうかと思いよったら、2、3日前もう夜中にベットの上を這い回って苦しまれる。それをお医者さんに来ていただいて、まぁあらゆる手だてをし、そのまあひどい注射針を打ったんだけれども、止まらなかった。それで、明日はレントゲンにかけてもろうたところが、もう腸がすでに停止しておる。
それぞれ前の日に、お夢を頂いておられた。あのぶどう一つ食べて、食べておられた。その種それがその腸捻転の原因であった。だからとにかく大問題になって、切って取られようか考えた。私よりもいわば3、4日早く帰らして頂けれる、という人がです、もうその寸前になって、そういうまたいつ退院できるか分からんと言った様な状態。もう本当にスムーズなことであったと。またこっちの人は、もう手をこうずうっと指の方まで切っていかにゃんぐらいだった。
まあ様々な病気が、とうとう足も切んなさらんようになった。と言う様にもう難儀な病気の方があるそうです。それから一人の方は、同じにあのやはり胃の病気で、手術を受けておられた。だからそれは簡単な手術だったそうですけれどもね、その手術中にくしゃみが出たね。だから暴行がが破裂した。そのくしゃみで。神様がですね、もうくしゃみひとつでも、ね、適当な時に出さして頂かなければならない。
それには日頃、私共がくしゃみが出る事に対してもお礼を申し上げるような心でおらなければ、そう言う事になる。ところが今度の上野さんの場合ですけれども、その腸捻転で苦しみぬかれた、同じ症状が明くる日から起こってきた。下痢をしだした。こら大変、またどう言う事になるだろうかと思って、まあ一時蒼然、そういうお届けをされた。こらもう自分も一生懸命金光様にお祈りさして頂いて、おりましたところがね、おかげもう、んなら又手術どもせんならん様な事でございましたけれどもね。
何か知らんけども、こう寝返りうつ時にですね、そのガスが出た。お医者さんがその、すぐ次に見えた。今ガスが出ました。それなら大丈夫あんたはそら腸捻転じゃなかたいと言う事で、まああわやと言う所でおかげを受けたと言った様な事から、本当に信心のある者とない者の違いのね、まあ今度こそ、切実に感じたことはなかったと言うて、それこそ、感激してお届けがございました。
それは、まあお互いが信心さしていただいて、おかげを受けますと、皆さん信心しておるおかげでと思いますのですけれども、病気災難は根の切れるまでのおかげ、井戸は清水になるまでのおかげ。それこそ、尽きぬおかげがこんこんと湧いて出て来るほどしのおかげ。そういうおかげを頂かせていただくためには、信心のある者とない者は、親のある子とない子ほどの違いをね、分からして頂かなければならない。
私がもう、一番もう商売がもう終いになるという頃でした。福岡、福博の町をまだその時はまあ自転車を持っておった。あちらこちら周らせていただいて、福岡広いですからね。その、教旗がこうやって、まあへんぽんとして、あがっておる。金光様の八波のご紋章の旗があるところは、もう通り抜けはしなかった、どこへ行ってもお礼に参拝さしてもらう。たまたま、平尾を通りあわせましたら、今まで何遍も通ったが旗は立っておらんかったけれども、その日は、その旗が立ってある。
あらと思うてやらせて頂きましたら、そこに一台の大きなトラックが着いた。ところが、そのトラックの中から、私の知った人が降りて来る。というのは、むつやの田代さんで、総代をしておられた。それから次々降りて来られるのが、甘木の初代の安武先生。日田の堀尾先生。それに、とりまきの先生方が、あの当時は、まあある意味その、タクシーに乗って来られる自家用車もなかった。トラックでした。それをね平尾の教会に、教会ができる、今のよしの先生の所の教会。
そこに開教式があるために、ちょうど甘木からそういう一団が着いたところ、私はそこに行き合せた。はあ今日はまたおかげ頂いたものじゃある。安武先生といやあもう、本当に当時日本一と言われるほどしの先生だけれども、何か久留米関係と甘木関係が何か対立したようであって、甘木んどんお参りするなら、おかげ落とすと言った様なものがあったんですね。けどもその当時はもう私の心の中に、もう八並のご紋章が、看板の出とるならちょっとお礼さしてもらわにゃおられんという時代ですから。
もう幸いと思うて、その開教式を、まぁ時間を待たしていただいて、おかげを頂いた。初めて安武先生の、ご祭主になるお祝詞も聞かせて頂いた。お説教はやはり安武先生であった。もうご晩年の頃ですから、そりゃあもう、もうぼつぼつとしたお話をなさる中に。もうそれこそ、私がもう新しい血がたぎるような感動を得たお話であった。当時それはその話は椛目では、私が繰り返しさして頂いたお話ね。
あのそれは明治時代です。大変浄瑠璃が流行った時分。その時分に女義太夫と言うのが流行ったそれこそもう、今のあの何て言うんですかこう髪をこう長くした、男やら女やら分らん人がこうこうやって、髪を振り乱してから放達されるでしょう。あれと同じ娘の昔の娘義太夫なんかというのは、こうやってやっぱり義太夫さん独特の日本髪をこう結います。はあ見台をこうつかまえてといて、こうやってからもうそれこそ、口ば向うへ飛ぶように勢いよくそのうたわれる。
もう髪が崩れるだろうかと、それがまあなかなか良かったんですよね。そういう全盛の時代に豊竹呂しょうという名人が出た。その豊竹呂しょうがです、呂しょうとして名が出るまでのお話を安武先生がなさった。やはり今ののど自慢と同じ事で皆んなに、流行ってくる、それを、まあ子供心に真似て歌う。ところがなかなか声が良いから、どうでもひとつ、その、上方に登ってよい地方になれというのでね、そら心躍らして、まぁああお師匠さんにつかせて頂いた。(ちすじちさじょう、ほんで?)。
ところがです、初めて自分のその声を師匠が聞いてくれたら、もう明くる日からその教えて貰うかと思うた所が、まあ始めは子守りです。御飯炊き使い走り。他のお弟子さん達は毎日、稽古場で稽古がある。何年間というて修行しておる間にたった一つ。野崎の一段を教えて貰っただけであった。もう5年にもなる6年にもなった。そこで呂しょうが考えた。自分が自分の自分の声に聞き惚れて、自分は良い浄瑠璃語りになれるぞ思うて、やってはきたものだけれど、これはもう自分に見込みがないのだろうと思うた。
他の人達は皆いくつもの、上がっては弟子離れをして行く。自分は5年経っても6年経っても、子守りでありお使い走りであり、女中さん同様にこき使われるばっかりである。たった5年も6年もの間に、野崎の一段を教えてもらっただけであった。好きなものですから、御飯炊きながらでも、子守りしながらでも、結局は習うたそれをいつもかつも、ただ口ずさんで稽古する他はなかった。けれどもそこに考えた。これはもう自分にはもういよいよ、師匠が見切りをつけておるのであろうと。
これにいつまでも辛抱しても仕様がない。と思うたもんですから、ある日こっそりと荷物をまとめて、逃げ出すことにした。そしてまた、自分の故郷に帰るのである。船に乗った。船の出を待っとる間に、もうこう月が上に上がってきた。もう後どれだけすると、船が出るというた。本当にこの船でここへやって来たが、又帰りに今自分はこの船で帰らせていただいておるが、故郷に錦を飾るつもりのはずの者がです、ただ野崎の一段だけを覚えただけで帰っておる自分がもういよいよ惨めで悲しゅうなった。
嬉しいにつけやはり悲しいにつけ、口をついて出るのは、やはり野崎の一段であった。帆柱にもたれて、そして思わず知らずその野崎の一段が、こう口ずさむともなしにだんだん力が入って、語っておる自分に気が付いた時には、もう自分の周囲にね、下の船客達が全部上がって来てから、聞きおった。終った時には千両、っと向こうから声が掛かったっちゅう。もうそれこそ弾かれるようにびっくりした。
もう出帆間際の船から飛び降りてね、今誰かが私が一段野崎浄瑠璃をです、千両と言うて声をかけて下さったが、ここまでに育ててくれた師匠のことが思われた。それから取って返して、まあ自分の師匠の家に帰ったというのである。帰ったところがもういつ頃いつもならば、今の頃は人の音がして、もう一生懸命何人もの人が稽古があっておるのに、ひっそり感としておる。不思議に思うて奥の間へ駆けたところが、つくねんとして師匠が(つきへみえかかっておった?)。
お師匠さんどうもすいません。こんな不心得なことしてと言うて、おわびに出らして頂いたらそれこそ、もうそれこそ安心した、ほっとした顔をして師匠が言われた。よう帰って来てくれた。もうお前が家出をしたというそれを聞いてからね、他の者に教える気力もなくなったって仰った(笑い)。 お前が5年前6年前ここへ来た時にお前の声を一声聞いた時にね、これはモノになるぞ、これは自分の芸の全部を渡しても惜しくない弟子になるぞと思うて、ね、もう一生懸命、堪えに堪えて。
いわば中途半端なものは教えんぞと思うて、教えたのは野崎の一段だったが、あの野崎の一段の中にはね、あれ一段が本当に語りこなせたら、あの中には浄瑠璃の感所、いうならなげきもありゃ笑う所もあるね。ちゃいむ、ありゃあ、あぁ泣きの所もあるね。もう様々なものが、あの野崎の中には要素があるんだ。あれを一段が語りこなせたら、あれも教えてやろうこれも教えてやろうと思うておる矢先にお前が家を出たというので、もう他の者に教える気力もなくなっておるところへ、まあよう帰って来てくれた。
さあこれから本気で教えるぞ。またこっちも本気で習うぞという気になって、いわば名人豊竹呂しょうが誕生したという話であった。私はそのお話しを当時する度に、私は自分の身にそれこそ畢竟した。どうでも難儀は野中。あの程度の信心であげんおかげ頂きよる。信心なしよらんでもあげんおかげ頂きよる。信心な自分の方が却って、熱心だと思いよるけれども、神様がおかげを下さらんのは、どういう訳かと思わんと言う事もないけれども、これはもう大坪総一郎でなからなければ出来ん事があるぞと。
これは大坪総一郎だけにしかやらんぞと言った様なものが。その奥の奥の心にはあるには違いはないと思うて元気が出た。私はあの時に、いわゆるもう修行のもう真っ最中に入ろうとしておる時でしかたから、大変苦しかったね。けれどもあの親先生がそのお話しを頂いたところからね、私の心に元気が湧いてきた。私は信心は親に孝行するも同じ事と教えられるが、親の心が分からしてもろうて親の心にそうと言う事。親はどう言う事を思うておるか分からんね。
ふざけながらもやはり、可愛いから叩きよるかもしれん。信心する者は親のある子とない子ほどの違い。なでさすりされることも親ならばですね。間違えばやはり、叩きもすりゃ、もう場合には押し込みの中に押し込んででも、押し入れの中に押し入れてでもね、すいませんとか分かるまでは、入れる。それが親心である。そういう親心が分からなければ、今朝から頂いたね。
井戸が清水になるまでのおかげが頂かれません。これほど信心するのにいつまでも水が濁っとる。やはり水が濁っておるのというのではなくてですね、そこんところに親心を悟らしてもらい、神様の思いを分からして頂いて、一段とそこを元気な心で信心しなさいとおっしゃった。そこんところを元気な心で信心さして頂くところからね、神様のいわば願いでもあり、私共の願い、いうなら夢にも思わんほどしの願いがです、成就してくるおかげになってくるのであります。
信心する者は親のある子とない子ほどの違いを上野さんは今度の入院によってそれを感じたとこう言う。なるほど聞かせて頂くと、それを感じます。けれども、そうではない。もうひとつ向こうにある親心を分からして頂いて、いよいよ井戸は清水になるまで、私共の上に病気災難の根が切れるまでの信心修行がね、頂きませんと、いわば信心に楽しさが出てきません。有難さが湧きませんね。どんな中にあっても信心に楽しいというものになってこなきゃいけんと思うのです。
どうぞ。